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「啓発すること」は、「発信すること」。これから部落差別をはじめ、あらゆる差別の問題について発信していきます。

若い教職員と考える部落問題セミナー

  『寛政の改革 於・小倉』
~歌舞伎『濃紅葉小倉色紙』の史実~
 小倉城特設ステージで行われる歌舞伎(中村座公演)は、さかのぼればれば、文化13年(1816)に初演された『濃紅葉小倉色紙』にたどりつきます。内容は、「小笠原騒動」という歌舞伎によくあるお家騒動です。
 歌舞伎の中では、小倉小笠原藩の家老・犬神兵部は、自分の愛妾だった「お大の方」を主人、小笠原豊前守に差し出します。ところがその「お大の方」のお腹には、兵部の子どもが宿されていた・・つまり、兵部とお大の方による「小笠原家乗っ取り」という物語です。
 この犬神兵部のモデルは、犬甘智寛という家老です。では、なぜそんな犬甘が、歌舞伎では《悪役》にされなければならなかったのか・・?
 家老・犬甘知寛による《寛政の改革・小倉バージョン》は大成功(銀8000匁の蓄財をつくる)を収めました。しかしそれを農村部から見ると、※のありさまです。
※田川郡大庄屋の返書
   添田文書(北九州部落解放史資料) 意訳
 藩から『なぜ最近、田川郡は厳しい状況になっているのか?』の問い合わせに対して、大庄屋連中が話し合って答えたものです。
 それは、寛政5(1793)年から10カ年間、豊作・凶作にかかわらず「惣定免制」で年貢の取り立てがおこなわれたためです。さらに享和2(1802)年には洪水もあり、たまりかねた百姓は翌年春の拝借米の嘆願に小倉行くなどの事件がありました。
 とにかく10カ年間の「惣定免制」のために、大百姓も含めて郡内では、数百軒の百姓がつぶれました。百姓は離散して人口がへり、耕し手のない水田が村々にずいぶんたくさんできました。田川郡がおとろえた原因はここにあります。
 財政再建に成功した・・でも、その「財・お金」は、どこから生まれてきたの?成功した。でもそれは、「藩にとっての財政再建」という意味です。
 「享和2年には洪水もあり・・嘆願に小倉に行くなどの事件がありました」は、藩主・忠苗(ただみつ)を引退に追い込むという大事件になりました。また、犬甘も罪を得て、失脚しました。
 ところで、この引退した忠苗のあとを継いだのが、忠固です。歌舞伎にまで取り上げられた「白黒騒動」がおきたのは、この時です。何と藩士340人が大挙、他領・筑前黒崎に出奔するという前代未聞の騒動です。さらにその後も、「白派」と「黒派」の間で藩政が揺れ動くのです。幕末、小倉城を焼いて企救郡を放棄するのです。
◎江戸時代の京都行橋地域では・・
○かわた(えた)が生活する村は、30ヶ所ほどありました。彼らの生業は、農業でした。「死牛馬の処理」をおこなう村は、3ヶ所しか古文書には登場しません。その3ヶ所にしても、主業は農業です。
行刑をおこなう役は、小笠原領内の「かわた・えた」にはなかったようです。強いて挙げれば、行刑に近いものとしては、「牢番」役がありました。また、犯罪者の捕縛については、おこなっていないと考えてよいと思います。古文書では、18世紀末に1例あるのですが。
身分制度があった時代ですから、「かわた(えた)」も当然その中で生活していました。農村部で大多数を占める百姓と同じように農業を主業としていたので、欠かせない存在であったことは間違いありません。だとすれば、身分が異なるという意識はお互いにあったとしても、さらにそこから「社会的な差別感情」が生まれる余地は・・?